ツララツラツラツブラカナ

なんてことはないなんてことのないこと

未来永劫、孤高でロック

皆さんこんにちは。
寒いと思ったら暑くなったり、不安定な気候が続きますがいかがお過ごしでしょうか。

 

今回はジェンダーバイアスについてつらつら書いてみたいと思います。
タイトルは楠本まきさん著「赤白つるばみ・裏」の帯文から拝借。

本書はジェンダーバイアスというある種の呪いについて
作者の祈りにも似た痛切な主張が柔らかな日常に溶けて展開してゆく名著です。

おススメの漫画なので興味があればぜひ一度読んでみていただきたいと思います。

赤白つるばみ コミック 全3巻セット

赤白つるばみ コミック 全3巻セット

  • 作者:楠本 まき
  • 発売日: 2020/07/22
  • メディア: コミック
 

はてさて、そもそものジェンダーバイアスとはなんぞや?について
筆者個人の認識で簡単に説明させていただくと、「集団の中で押し付けられる”男”あるいは”女”らしさを押しつける観念」全般をまとめて”ジェンダーバイアス”と言います。

 「ジェンダー」=「性差」

 「バイアス」=「かたより」

で分けるとしっくりくるかもしれませんね。

 

例えば幼い頃に

「男の子なんだから○○しなさい」

あるいは

「女の子なんだから○○しなさい」

なんて親御さんに言われた経験はないでしょうか?

ここで違和感を感じ取るか否かがこの問題における一つの契機なのかもしれません。
意識して捉えはじめれば、それこそきりがないほどたくさんの場面でジェンダーバイアスは作用しているのが実態と言えるでしょう。

 

LGBTにまつわる種々の問題にも通じる話ですが、この手の”呪い”の根深さは
発信する側の悪意の無さこそが問題なのではないかと思います。

世代をまたぎ連綿と受け継がれるこれらの呪いは、本質として脳を、つまりはそれについて考えることを必要としません。
なぜならこれらは歴史的に一つの一般常識として十分な地位を確立してしまっているのですから。

 

朝起きて最初のあいさつに、何故「おはよう」というのかを疑問に思わないのと同様、
常識とはそれをすることを疑う必要性がない共通の認識なのです。

ただし、疑う必要のないモノが必ずしも疑わなくてもいいモノであるとは限りません。

悪意なく、悪気なく、裏表なく発された言葉が相手を傷つけない保証はどこにもないのですから。

 

話の焦点をジェンダーバイアスに戻すにあたって、この問題に対する筆者個人のスタンスを表明しておくと、

「役割としての性差と差別としての性差を適切に腑分けした上での男女平等主義」

以上に尽きます。

熱心な活動家の中にはここで言う”役割”と”差別”を意図的にぼかして使用している方も散見されます。

自らの主張の優位性を確立するためのツールとして使用された時点で、それがいかに筋の通った主義であっても、そこには必ず誰かの嫌悪感が生じてしまうことを忘れてはいけません。



”役割”と”差別”とはなんなのか、
まず”役割”としての性差ですが、これに関してはそんなにありません。
生物学的に可能か否かというだけのことです。

突き詰めれば生殖における役割以外は、望めばなんにでもなれる社会構造が望ましい気がいたします。

もちろん身体的な特徴や個人の性格によって異なる傾向が生じるのは仕方がありませんが、それ以外に強要されるべきバイアスのすべては滅んでしまって構わないかと思います。

次に”差別”としての性差ですが、
前述の”常識という呪い”を疑うことが必要だと思います。
「男性なら○○すべきだ」
「女性なら○○すべきだ」
という押しつけがいつの日か錆びついた考えになればいいと思います。

 

日本においての代表的な例を挙げれば、どうしても「男尊女卑」の考え方が真っ先に浮かんでしまいますが、もっとミクロな視点での事象で考えていただきたいと思います。

その性質上ジェンダーバイアスを声高に問題視する人の割合は女性の方が多いのが現在の状況だと言えますが、これは間違っても女性だけの問題ではありません。

男性であっても女性であっても、個人の嗜好が理由なく虐げられることは本来あるべきではないと思うのです。

極端な例で言えば、別に男性がスカートを履いたって良いし、女性が坊主頭にしたって良いじゃないか。という話ですね。
そしてこういった例に対してもしも一抹の嫌悪感が湧くのだとすれば、その正体こそが理由のない常識なのではないかと思うのです。

 

常識というものが確立されるにはそれ相応の時間がかかるもの。

一説では日本における男尊女卑の考え方が広く流布したのは、江戸時代頃だと言われています。
当時の武家社会において家督の継承は男性が担っており、そこから派生して生まれた風潮がそのまま現代においても残っているという説です。

それだけ昔から広く常識として機能してきた側面がある以上、それは文化においても相応の比重を占めているというのも、揺るぎようのない事実と言えるでしょう。
そして文化として継承されている以上、こうした考え方が社会規模で変わるのにもまた、それ相応の時間がかかるのは仕方のないことだと思います。

 

 

 

さて、ここまでつらつらとジェンダーバイアスについて書かせていただきましたが、
この問題をみなさんはどう思うでしょうか?

すぐに解決することはむずかしい。というのが筆者の個人的な感想です。
それでもこの問題を意識的に捉えて”呪い”に加担しないようにすることは可能なのではないか?とも思うのです。

今まで普遍的に作用していた常識を否定するには、確かに薄氷を踏むような心地で臨まなくてはならないかもしれません。

それでもいつかこれらが古臭い、カビの生えた思想として認識される頃には、
今より幾分生きやすい社会が出来上がっているとは思いませんか?

 

最後に、冒頭でご紹介した「赤白つるばみ・裏」の中から印象に残った問いかけを、

 

「あなたは、~~ですか? ”はい”か”いいえ”で答えてください」

 

沈黙は金、雄弁は銀

みなさんこんにちは。

瞬く間に秋。
田園の稲穂が黄金色に色づき始めております。

 

先日の早朝、
気晴らしがてらランニングに出かけた折、2羽の雉(キジ)と遭遇しました。
こちらに気が付くと声もあげずに走り去ってしまいました。

 

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本日は稲穂と雉で思い出したお話、「おしになった娘」についてつらつら書いてみようかと思います。

余談ですが、”おし”というのは発話障害等によって口がきけない者のことを指す言葉で、現在ではあまり使われることがありません。
漢字では”唖”と書きます。

この「おしになった娘」というお話は信濃、今でいう長野県に伝わる民話で、
当地を流れる犀川に架かる「久米路橋」にまつわる人柱伝説がもとになっています。

以下にざっくりと「おしになった娘」の内容を書かせていただきたいと思います。

 

 むかしむかし、犀川のほとりに小さな村がありました。

 この村では毎年秋の雨の季節になると、犀川が氾濫して多くの死人が出るので、

 村人はたいそう困っていました。

 この村には”五作”とその幼い娘”もりい”という父娘が二人で暮らしていました。

 母親は前の年の大雨に流されて死んでしまいました。

 残された二人は貧しいながらも仲良く暮らしておりましたが、ある年の雨の季節に

 もりいは病を患い床にふせってしまいます。

 医者を呼んでやろうにも貧乏な五作には薬を買うお金もありませんでした。

 必死に看病しますが、日増しにもりいの容体は悪くなっていきます。

 そんなある日、いつものようにもりいに粟(アワ)の粥を食べさせていると

 「もうかゆはいらない、わたし、あずきまんまが食べたい」と言います。

 あずきまんまというのは赤飯のことで、もりいにとってはまだ母親が生きていた頃に

 一度だけ食べたことがあるごちそうです。

 しかし今の貧乏な五平の家には米もあずきもありません。

 病床の娘のたったひとつの願いに、五平はある決心をします。

 「地主様の蔵になら、米もあずきもあるに違いない」

 こうして五作はかわいいもりいのために、生まれて初めて盗みを働くのでした。

 

 地主の蔵から一すくいの米とあずきを持ち帰った五作は、もりいのために

 あずきまんまを作って食べさせます。

 「ありがとう、お父。あずきまんまはおいしいなあ」

 「そうか、うまいか。たんと食べて早く元気になれ」

 こうして食べさせたあずきまんまのおかげか、もりいの容体は日に日に良くなり

 やがて外で遊べるまでに回復しました。

 一方、地主の家では蔵に盗人が入ったことに気づいていました。

 お金持ちの地主にとって盗まれた米とあずきは大した量でもありませんでしたが

 一応は役人に届け出ることになったのでした。

 そうしてしばらく経ったおり、元気になったもりいは外でマリをつきながら

 歌を歌っておりました。

  ♪トントントン
  ♪おらんちじゃ、おいしいまんまたべたでな
  ♪トントントン
  ♪あずきのはいった、あずきまんまを

 近くで畑仕事をしていた百姓は、その歌を聴いて

 「変だな、五作のところは貧乏であずきまんまなんて食えやしないはずだが…」

 と訝りますが、さほど気にもとめませんでした。


 やがてまた大雨の季節となり、犀川の水は今にも氾濫しようとしていました。

 頭を抱えた村人たちが村長の家に集まり考えを巡らせていると、ある者が言います。

 「人柱をたててはどうか?」

 居合わせた村人たちも次々に同意します。

 そうなると”誰を”人柱にするかを決めねばなりません。

 「そういえば…」とひとりの村人が口を開きます。

 それはあの日、もりいの歌を聴いていた百姓でした。

 百姓はあの日もりいの歌っていた手毬歌について皆に話しました。

 地主が役人に届け出たことによって、蔵に盗人が入ったという噂は村人の知るところ

 となっていたので、その話が決め手となり五作の家に役人が詰めかけます。

 「五作、おぬしは先日地主様の蔵に米とあずきを盗みにはいったであろう?

 娘が歌っていた手毬歌が何よりの証拠じゃ」

 もりいはハッとして五作の方を見ます。

 「お父!」といって泣き出すもりいに、五作は優しく

 「お父はすぐ帰ってくる、心配せずに待っていなさい」と言います。

 しかし五作が帰ることは二度とありませんでした。

 連れて行かれた五作は、犀川の大水をしずめるための人柱として、

 生きながら埋められてしまったのでした。

 「わたしが歌なんか歌ってしまったばっかりに…」

 もりいは何日も泣き暮らした後、やがて一切しゃべらなくなってしまいました。

 たったひとすくいの米とあずきを盗んで生き埋めにされた五作と、

 悲しみから口をきけなくなってしまったもりいを憐れむ村人もおりましたが、

 どうしてやることもできません。

 変にかばいだてて次の人柱にされてはたまらないとも思っていました。

 

 そうして何年か経ち、もりいはすっかり美しい娘になっておりましたが、

 相変わらず口がきけないままでした。

 そんなもりいのことを村人たちは気の毒そうに見ていました。

 ある日、村の猟師が獲物を求めて山に狩りに出たときのこと、

 一羽の雉が「ケーン!」と大きな声で鳴きました。

 猟師は声をたよりに構えた鉄砲の引き金を引きます。

 ズドーン!

 猟師は藪をかきわけ、仕留めた獲物を探している最中、ハッとして足を止めます。

 そこには撃たれた雉を抱えたもりいが静かにたたずんでいました。

 「かわいそうに、おまえも鳴いたりしなければ、撃たれて死ぬこともなかったろうに」

 そう言ってもりいは涙を流します。

 長く口をきけないと思っていたもりいの言葉に驚いて、猟師は声をかけます。

 「もりい、おめえ口がきけたのか」

 もりいは猟師にはなにも答えず、ただぽつりと「雉も鳴かずば撃たれまいに」

 とつぶやくと、雉の亡骸を抱いたままその場を去っていきました。

 以来この村でもりいの姿を見たものは誰もいないそうです。

 

さて、いかがだったでしょうか。
残酷で悲しい、それでいて教訓に満ちたお話だと思います。

タイトルの「沈黙は金、雄弁は銀」というのはイギリスの思想家が唱えた言葉ですが、
このお話にも同様の哲学が流れているような気がいたします。

 

今こうして書いているブログやSNSをはじめ、現在では思ったことを発信する術は実に多様です。
だからこそ一度立ち止まって考えるプロセスもときには必要な気がいたします。

黙りすぎるのもそれはそれで問題ですが、不用意な一言はできれば口にせずにいたいものですね。

 

 

 

 

蓼食う虫も好き好き

みなさんこんにちは。

タイトルのことわざ、耳にしたことのある方も多いかと思います。

蓼(タデ)のように苦い葉を好んで食べる虫がいるのと同じように、人の好みも千差万別である。といった意味のことわざです。

 

ここで言われるタデという植物。
日本中比較的どこででもお目にかかることのできる、いわゆる雑草なのですが、
”蓼食う虫”なんて例え方をされるくらいなのだから好んで食べる生き物はそうそう居ないように思われます。

 

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実際好んで食べる生き物は少ないのですが、実は我々人間も食べることがあります。
鮎の塩焼きには欠かせない”蓼酢”はこのタデの葉をすり潰して酢で伸ばしたものです。
他にも薬味として、あるいは刺身の付け合せとして用いられたりなんかもします。

 

さて、一般的には好ましく思われることのないモノ、あるいは興味をひかれることのない事柄であっても、こと個人の世界においてはまた別のお話。 

 

他人に理解されない趣味嗜好、思考、思想等々。
みなさんにも一つくらい思い当たる節があったりするかも知れません。

多くの場合それらは本人のアイデンティティと密接に関わりあっているようで、
対人関係において扱い方を誤ればトラブルの火種になることもしばしば。

逆に同一の価値観を持ち合わせることが出来たのなら、相手との距離を縮めるキッカケになることでしょう。

 

”蓼食う虫も好き好き”という言葉が使われる場面は、どちらかというと皮肉的であったり侮蔑的であったりすることが多いように思われます。

それはこの言葉が基本的に”蓼を食わない側”の視点で発されているからかもしれません。


蓼食う虫として相手を見るのか、共に蓼を食うのか、
そのあたりの線引きで相手との関係はがらりと変わります。

たとえ自分にとって食べることのできない味であったとしても、それが好きな人もいるということをネガティブにとらえる必要はないように思います。

 

 

ちょうど今くらいの季節に川原なんかを歩いていると、房状の穂先に小さな花を咲かせたタデを目にすることがあります。

穂先にはいくつも鈴生りにつぼみがありますが、花を咲かせるのは常に2~3個だけです。

 

同好の士というものは得難く大切なものですが、ひとつのコミュニティでの常識が全世界共通の常識であるとは限りません。
自分にとって大切なものが必ずしもすべての人にとって大切なものであるとは限らないように、趣味嗜好とはいつだって誰かにとっての”蓼”であるということは忘れないでおきたいものですね。

 

 

猫は開けた襖を閉めてゆく

みなさんこんばんは。

今週のお題「読書感想文」について、私なりにつらつら書いてみたいと思います。

タイトルは人気アーティストの米津玄師さんが”ハチ”の名義で活動されていた頃の歌詞から拝借。

 

人によって様々な読書の原体験があるかと思いますが、みなさんはいかがでしょうか?

筆者が初めてハマった小説は、小学生のころ図書館で借りて読んだ「黒ねこサンゴロウ」シリーズでした。

 

『黒ねこサンゴロウ』うみねこ島の船乗りの冒険

『黒ねこサンゴロウ』うみねこ島の船乗りの冒険

  • 作者:竹下文子
  • 発売日: 2019/11/01
  • メディア: 単行本
 

 

主人公はクールな黒猫のサンゴロウ。シニカルな語り口が魅力的なキャラクターです。

彼はウミネコ族の船乗りで、相棒の”マリン号”を巧みに操り冒険の旅へ向かいます。

サンゴロウをはじめとした個性豊かな登場人物たちの織り成す胸躍る冒険譚に、それこそ寝る間を惜しんでわくわくしながら読みふけったものです。

 

竹下文子さんの紡ぐ丁寧で柔らかな文体は、当時の私にも読みやすいものでしたし、

鈴木まもるさんの描く挿絵のイラストが想像力をかきたてて、まさに”読む手が止まらない”という感じでした。

 

当時私の通っていた小学校では、定期的に全校読書週間なるものが催されていて、

期間中は1時間目の授業が始まる前の15分程を読書の時間として割り振られていました。

 

黒ねこサンゴロウシリーズは人気のタイトルだったので、学校の図書館では順番待ちでしか借りられない状態でした。

先に続きを読み終えた級友に「どうだった?」と聞いては、返ってくる意味深な含み笑いに期待を高め、

いざ読み終えて内容を共有して盛り上がるまでの一連の流れが本当に楽しかった。 

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思えばあんなふうに一つ所に大人数で集まって本を読む機会は、今となっては貴重な体験だったように思います。

 

「読書感想文」というテーマからはいささか逸れてしまいましたが、読書というあくまでも個人的な体験をそれぞれが咀嚼し、その面白さを伝えるために言葉を吟味する作業は”読書感想の表明”という大きな括りの中で通じているように思い書かせていただいた次第です。

 

読書の秋に向けて夜が日増しに伸びるこの季節、皆様も身近な誰かと読書体験の共有をされてみてはいかがでしょうか?

 

 

* * * * *

 

読書感想文についてのごく個人的な思い出をもう一つ。

これも小学生のころの思い出なのですが、当時国語の教科書に載っていた「きりかぶの赤ちゃん」というお話にまつわるエピソードです。

年齢がなんとなくわかってしまいますね(笑)

 

 

小学生のころの筆者はいわゆる問題児でした。

といっても家庭環境が荒んでいたとか、突然暴れだすといったことではなく、

宿題をやってこない。屁理屈を言う。という類の実にかわいくない子供だったのです。

 

ある日あまりにも宿題をやってこない私に、とうとう先生の怒りが爆発します。

今では問題視されそうな気もしますが、先生は私の机と椅子をベランダへ移動させ、

「罰としてそこで授業を受けろ」と言いました。

なにせ可愛げのなかった私は、内心「上等だよ」って感じでベランダへ向かいました。

 

窓だけを開けてもらい、国語の授業を受けました。

日差しの強い夏の日でしたが、幸いベランダは日陰になっていてそれほど暑くはありませんでした。

ただベランダに不似合いな学習机で蝉の声を聞きながら、自分だけが世界で一人ぼっちのような気がしました。

 

教室ではきりかぶの赤ちゃんをクラスメイトが順番に朗読していました。

 

一通り朗読が終わると、先生から一つ課題が出ます。

「このお話の感想を書いてみてください」というものでした。

配られたプリントに、こうだったらいいなと思う続きを書いて提出しました。

気まずそうにベランダへプリントの回収にきたD君の顔を今でも覚えています。

 

授業が終わってから先生に呼ばれました。

どうせ教室に戻ってもいいという話をされるんだろうな、と白々思っていたのですが、

ひねくれていた私はその後もベランダで授業を受け続ける覚悟でした。

 

しかし予想に反して先生の口から出たのは、先ほどの授業で書いたきりかぶの赤ちゃんの感想文に対しての感想でした。

 

「すごくよく書けていた」という先生の言葉が、なぜだか無性に嬉しくて、

それまで張りつめていたものがぷつんと切れたような心地でした。

 

そんなことがあって、その後半べそかきながらめでたく社会復帰ならぬ教室復帰をすることができたのでした。

 

 

伝えたいことを適切に伝えるのはいくつになっても難しいことですが、何かを誰かに伝えられたという手応えと喜びの原体験は、その後の人生を大きく左右しているように思います。

この記事を書いたのをきっかけに、久しぶりに読書感想文で伝える練習をしてみるのもいいかもしれないな、なんて思ったりしています。

 

 

 

 

 

 

月と「I」

こんばんは。

当ブログの記念すべき(?)初投稿です。

灼熱の季節も下り坂、夜は随分過ごしやすくなってきたような気が致します。

 

外へ出てみると満月。明るい夜。

カンボジアで「木」を意味する"メイサーク"と名付けられた大型台風の影響からか、月明かりに照らされた雲が音もなく駆けていきます。


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月の満ち欠けと言えば、以前筆者が沖縄の離島で仕事をしていた際に知り合ったIさんの話が思い出されます。

曰く「気分の浮き沈みと月の満ち欠けには何かしら相関関係がある」とのこと。

何やらスピリチュアルな薫りを感じながらも、その根拠について尋ねてみました。

すると、

Iさん「あんだけでかい海の水が月の引力で満ちたり引いたりしとるのに、半分以上水分で出来とる人間が影響受けんほうがおかしいやん」

 

私「…確かに!」

 

人体の約75%が水分で出来ているのだそう。

対して地球の面積に占める水分量は約70%と、ほぼほぼ同程度。

となれば潮の干満と同様に人間も何かしらの影響を受けて然るべきだ、というIさんの主張は確かになんとなく正しいような気がしました。

そうしてそれ以上に、地球という非常にスケールの大きなものと、自分というごく小さな単位との間に何かしらの繋がりを発見する視点というのが当時の自分にとっては大きな感動だったように思います。

 

以来思い出したタイミングで月齢を調べては、なんとなく遥かな気持ちになったりするのでした。

 

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秋に向かって過ごしやすくなっていくこの季節。

皆様も忙しい日常から一時離脱して、月と自分の関係について想いを巡らせながら夜の散歩などしてみてはいかがでしょうか。